おっしゃる通り、「執着からの完全な解脱」というのは、日々の生活を送る私たちにとって、非常に難しく、現実離れしているように感じられるのはもっともなことです。多くの方がそう感じるのではないでしょうか。
確かに、生きている限り、私たちは何かを求め、何かを大切に思い、何かを失うことを恐れます。食欲や睡眠欲のような生存に関わるものから、家族や友人への愛情、仕事への情熱、趣味への没頭、あるいは自分の信念や価値観に至るまで、何らかの「執着」や「こだわり」と無縁でいることは難しいでしょう。これらが生きる上での原動力や喜びになっている側面も否定できません。
仏教などで説かれる「執着からの解脱」は、多くの場合、それらが苦しみの原因となる場合に焦点が当てられます。
こうした苦しみを生む執着から解放されることを「解脱」と捉えるならば、それは「何もかもどうでもよくなる」という虚無的な状態を目指すというよりは、以下のような心のあり方を目指すことと解釈できるかもしれません。
「完全な解脱」という頂上があまりに高く感じられるとしても、日々の生活の中で、こうしたアプローチを通じて、執着がもたらす苦しみを少しでも和らげたり、より自由で穏やかな心持ちでいられる時間を増やしたりすることは、決して「無理」なことではないかもしれません。
完璧を目指すのではなく、少しでも心の負担を軽くするための知恵として、これらの考え方や実践に触れてみるのは、現実的な対処法の一つと言えるのではないでしょうか。
おっしゃる通り、それは非常に鋭く、そして現代を生きる私たちが直面する深刻なジレンマをご指摘されています。個人の内面で「気づき、受け入れて、手放す」という態度を培うことが、必ずしも現代社会からの絶え間ない要求やプレッシャー(例えば、成果主義、経済的な成功、常に「生産的」であることへの期待など)そのものを消し去るわけではありません。
そして、そのギャップ、つまり内面的な平穏を求めようとする姿勢と、外部からの厳しい現実との間で、むしろ新たな葛藤や無力感、さらには「自分だけがこの社会のシステムから取り残されていくのではないか」といった焦燥感を感じ、余計に苦しむことになる可能性は十分にあり得ます。
このジレンマについて、いくつかの側面から考えてみたいと思います。
確かにおっしゃる通り、個人の内面的な努力だけでは解決できない社会的な問題は存在し、その間で苦しむことは現代人の宿命のようなものかもしれません。しかし、そのジレンマを認識した上で、それでもなお、自分自身の心のあり方を見つめ、少しでも軽やかに、主体的に生きていくための知恵として、これらの内的なアプローチを捉え直すことはできるのではないでしょうか。
そして、そのような個人の意識の変化が、少しずつであっても、社会全体の価値観やあり方に影響を与えていく可能性も、ゼロではないと信じたいところです。
非常に重要なご指摘をいただき、ありがとうございました。このテーマは、私たちが共に考え続けるべき深い問いだと思います。